少なくとも、安易な考えで人を侮辱するのは弱い人間の思考だろう。

「大半の人間が当たり前に持っている能力を持っていない人」は病気だとか障害だとかの烙印を押されてしまう。確かにそれは一般人から見れば劣っている人間だと判断できてしまうから、差別の対象になってしまう。差別の対象になってしまうから、差別される人は精神的ダメージからさらに劣ってしまう。負のスパイラルが出来上がってしまう。

病気から救われる為には、まず病気を認めなければならないが、認めてしまうと世間が攻撃を仕掛ける。だから、自己の負の部分を認識するのは難しい。隠しながら自分ではしっかりと自覚して秘密裏に治していきたいと思うのだが、病気というのは基本的に誰かの助けを求めなければ治りにくい。

本当に難しい問題だと思う。動物としての人間は、自分が所属する組織に足を引っ張る人間が存在した場合には排除するように本能付けられてきたのだろう。しかしながら、その「足を引っ張る人間」が自分自身になるという「もしもの未来」にはまるで想定できていない。

自分が障害を持つだなんて、病気になるだなんて、足手まといになるだなんて、想像だにしていない。いや、していても今現在行われている差別に参加しなければ、自分が差別対象になるかもしれないという恐怖から差別を止めることができないのかもしれない。

自分が一番大事なのは自分。それは誰もが揺るがない。

だから誰もが差別を批判しながら差別する。自分のやった差別は「いじり、愛情表現、可愛がり」と言う風にポジティブに解釈する。もしも自分が差別される対象になったのならば、手の平を返して被害者ぶる。

醜いとは思うが強いとも思う。人間は誰もがそうなのだと思う。

そういう認識を常に抱き続けていないと、気付けば正義を盾にして差別をしてしまうのだろう。

障害を持つ人間が必ずしも全ての分野において一般人より劣っている訳ではない。逆に飛び抜けて秀でた部分もあったりする。その秀でた部分が世界に貢献すると一般人は天才と称賛して、自分の子供にも天才の教育をさせようとする。

要は、人は弱者だと認識する者に厳しく、勝者だと認識する者に甘いのである。だが、誰が弱者で誰が強者か、マジョリティはどのグループで、マイノリティはどのグループか、それを正確に認識するのは難しいし、そのバランスは時代や状況によって変動し得る。

少なくとも、安易な考えで人を侮辱するのは弱い人間の思考だろう。